カテゴリー「経歴」の23件の記事

2009年9月23日 (水)

引越し遍歴

突然引越しをすることになりました!

引越し業者になれるほど、引越しはお手の物です。オーストラリアに来てから、何度目?

  1. McKeller in ACT
  2. Broadbeach in QLD
  3. Merrimack in QLD
  4. Kaleen in ACT
  5. Centenary Park in FNQLD
  6. Clifton Beach in FNQLD
  7. Palm Cove in FNQLD
  8. Clifton Beach in FNQLD
  9. Arandel in QLD
  10. Helensvale in QLD
  11. Hope Island in QLD
  12. Upper Coomera in QLD
  13. Hope Island in QLD
  14. Hope Island in QLD (New)

きゃ~~~~、14回目!信じられませんね。引越し貧乏とは私達のことですよ。

こんなに仕事が忙しい状態である日突然引越しを決める私達って、、、?昔はこうやって、ある日突然夫が他州へ引っ越すぞ、と言う度に苦しみましたが、もうへっちゃらです。大分B型に慣れてきました。結構ワクワクしている自分がいたりします。久々のエキサイティングな出来事。パッキングや掃除は大変だけど、いらないものが片付くんですよね。たまには必要です。

今回も賃貸ですので、まだまだ続きます。私達の引越し遍歴。次はどこへ行くのかしら~?

ちなみに今回の理由の一つはペットです。とうとうワンちゃんデビューです。長い間の次女との約束だったので。

ご縁があればそのうち愛くるしいワンちゃんをご紹介いたします。

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2009年8月19日 (水)

会計士になった理由

今日は久々に経歴?の続きを。

なぜ会計士を目指したのか?昔の経歴にも書きましたが、私はバブル時代、男女雇用均等法が施行されたとはいえ、現実にはまだまだ男尊女卑が色濃く残る時代に日本で仕事をしていました。

ず~っと男に生まれたかったと思っていたくらいです。(今でもね!) それで外資系に就職を目指し、20歳の時から英会話学校に通っていたんですが、莫大なお金を費やして英語勉強をしてもいったいいつになったら英語で仕事ができるレベルになれるのかしら~?と疑問を持ち始め、その他にもいろいろとまわりの影響で流されてきてしまった自分の人生に終止符を打ち、自分の力で自分のやりたいことをやろう、と決心してオーストラリア語学留学を決意したわけです。23歳の時です。

で、その後の流れも以前経歴に書いております。

外国での生活って憧れでしたし、自由があり、女性の権限が守られているこの国はとても暮らしやすく、たくさんの恩恵を受けてきました。

でも!所詮私達は Migrant 移民者なんですよね。オーストラリア生活が長くなるうちに、現実問題として移民としての弊害というか、問題も感じるようになりました。差別も目の見えないレベルで多くありますしね。。。 感じないわ~という方はとてもラッキーなことだと思います。感じ方も人それぞれ違いますし、、、

外資系バリキャリを目指して渡豪したわりには、気がつくと結婚して子供を持つ身。自分の夢は据え置きになっていました。

幸い女性が仕事をすることや、自分の道を進むことを勧めてくれるような夫を持ったため、喜んで大学進学に協力してくれましたし (仕方なく?!)、なんでもサポートしてくれました。

会計士を選んだのは、昔銀行で働いていたので多少金融の知識があったこと、またこちらの銀行勤務で自分の知識が生かせたこと、そしてプロフェッショナルな資格を得て、自立したいと思ったことが理由です。

日本ほどの肩書き社会ではないかもしれませんが、移民であるというハンディを負いながらこの国で自立するには、ローカルな人からも認められる資格があれば、と思ったのです。 (でも移民であることをハンディと思ってしまうのが私の弱点かもね。元来負けず嫌いなので、、、)

苦節7年無事大学を卒業。就職先には問題もありましたが、仕事が見つかっただけでも結構ラッキーだったと思います。就職した後、オーストラリア公認会計士 CPA の勉強も続けてきました。仕事と育児、家事をしながらの勉強は本当に苦しかった~。その後も波乱万丈いろいろありましたが、、、晴れて公認会計士の資格が取れ、気がつけば独立し、毎日忙しく仕事をさせていただいている状況となりました。本当に夫と家族と友人、お客様とオーストラリア社会に感謝しているのです。

ちょっぴり昔を振り返ってしまいました。でもね、この素晴らしい環境に感謝の気持ちは忘れずに生きていきたいな、と思っているのです。

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2009年3月22日 (日)

グリフィス大学 2

経歴の続き、、、(Did you have enough?)

グリフィス大学ゴールドコーストキャンパス時代の思い出話を。

思い出深いのは、マーケティングでした。これはビジネスディグリーの1年目のコアサブジェクトでした。私はご存知のように、JCUのコマースから始めたので、順序が狂ってしまって、大学生活3年目にしてこういう科目をいくつか取らなくてはならず、苦痛でした。

マーケティング自体は面白い科目で、確かにビジネスの学生なら勉強しておいたほうが良い知識ですね。ただビジネスの1年目のコアとあって、学生数は多分300人位。大所帯でした。グループアサイメント (課題) で商品開発とそのマーケティングプランの作成というのがあり、確かくじ引きで決まった私のグループは、17歳のオージー学生、18歳の南ア出身学生、18歳のフィンランド出身学生と中年のオバちゃん(私)でした。

3人ともかなりの美女でみな身長175cm 以上。なんか私が加わるとかなりちぐはぐなグループです。1人を除いては、まじめな学生で、しっかりリサーチし、かなりいい感じのドラフトを仕上げ、教授に相談することになりました。

ここで驚いたのは教授の対応!!若くてきれいだと、こんなに素晴らしい待遇なのかと改めてビックリです。300人もの学生を抱える教授だけに逆に個々の学生と接する機会がないとのことで私達を大歓迎してくれて、アサイメントの内容にもかなりアドバイスをもらい、期限を延長してあげるから内容を充実させてきなさい、とのこと。(ずるーい)

中年の教授の若い学生を見る嬉しそうな目が未だに忘れられませんね。私は後ろでそんなやり取りを冷ややかに傍観していました。。。

このアサイメントは300人の学生中最高得点を得て、なんとか賞という賞までもらってしまいました。私も恩恵を受けましたが、なにか納得いかない感じですよね~。

このアサイメントのウェイトは確か全体の 30% くらいでしたが、マーケティングでの最終成績は確か High Distinction かなりよかったです。

なにかこれだけ聞くと、オーストラリアの大学は若くてきれいだったらいい成績が取れそうだ、と思わせてしまったかしら?そんなことはありませんのでご安心を。成績の付け方はクライテリアが最初から明確にされていて、かなり公平ですよ。ゴマすりだけでは、絶対生き残れません。なんといっても勉強、勉強、また勉強、そしてちょこっとソーシャルスキルがあればプラスアルファにはなるかもしれませんが、、、

不器用な私は大学での勉強は人の3倍した、と自負しております。器用な方は楽に卒業できるのかしら?分かりませんが、日本人の学生さんはやはり現地学生の2倍は努力しないと卒業できないでしょう。頑張りましょう。学生サービス科にはいろいろなサービスがありますので是非有効活用してくださいね。

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2009年3月18日 (水)

グリフィス大学

2001年、ケアンズのジェームスクック大学からゴールドコーストのグリフィス大学へ転校いたしました。私は元来怠け者なので、Correnpondence 通信で大学の勉強をするなんてことは絶対できなかったので、通学圏内のグリフィスに移籍した次第です。

もともと Commerce (経済学部にて会計をメジャー) を取っていましたがグリフィスのゴールドコーストキャンパスではコマースをオファーしていなかったので、Bachelor of Business - International Finance 実は最初はファイナンスを専攻しました。

ふふふ、、、でもこのファイナンスで大きく挫折し (若いときの数学嫌いがここで影響しました!) また、この時最初に取った科目が Financial institutes and instruments 金融機関と金融商品?とでもいいましょうか。。。これは初年度の科目だったんですが、教授がすごいレベルの内容を要求し、他のオージーの学生さんも3年目の他の科目よりタフだった、と言っていた位難しかったんです。トレーディングについても、Trading Room という実際のトレーディングを疑似体験できる施設でいきなりトレーディングセッション!、もう IT系が苦手であり、トレーディングの知識も無かった私には地獄でした。アサイメントは全て、エクセルでのファイナンシャルモデリング!!オージー学生の10倍勉強しても追いつきません。

なんとかパスしましたが、もうこりごり、、、そして素直に会計科に移籍し直しました。Bachelor of Business - Accounting

転校をしたことによりいくつかのコアサブジェクトをリピートしなくてはなりませんでした。何度か交渉を重ね、すでに履修した科目のクレジット (単位の移行) は全て取りましたが、、、というわけで、将来公認会計士を目指す場合は特にコアサブジェクト (必須科目) が多い学部ですが、私の場合は転校の影響でさらに選択科目を取る余裕がありませんでした。

結局、会計のコア以外に取ったのはこのファイナンスと最後に取った心理学、そうなんです。これは全然会計に関係ないのですが、単位を潰すための枠が一つ残り選択は何でもOKだったので、心理学を取りました。でも1番楽しんだかもしれません。とにかく新鮮で、未知のエリアで、、、、英語での生物学の知識がもともと無いので、勉強は大変でしたけどね。

一番心に残っているこの心理学と、別の意味で思い出深いマーケティングの授業についてはまた今度お話します。

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2009年3月12日 (木)

引越し ケアンズからゴールドコーストへ

夢のケアンズライフの続きです。

ケアンズでは夢のような楽しい日々でしたが、夫が仕事を辞めパートナーと独立する決心をしたので、7年ぶりにゴールドコーストに向かうことになりました。

慣れ親しんだ土地を後にするのは悲しかったのですが、新しい生活に向けての希望もありました。空港まで友達が見送ってくれたり、最後まで本当に恵まれたケアンズライフでした。

車での引越しは以前の 3000km キャンベラーケアンズでこりごりでしたので迷わず空のルートで引越しとなりました。もちろん家具などは引越し業者に頼み、車もトランスポートを頼みました。当時飼っていた金魚ちゃん達もエスキー(クーラーボックス)で密閉しての移動です。

久しぶりのゴールドコーストに対してははこれといった感動もなく、適当な賃貸物件を探して落ち着きました。

3年生になった長女は、ゴールドコースト北部のステートスクール (公立小学校) 通い始めたのですが、田舎のカントリースクールだったその学校はこの数年で生徒数が 3倍に増え、通い出してみると校舎も机も椅子も足りない状態でした。3週間目に担任の先生に時間割を教えてください、と言うとまだホリデーから戻ってない子供もいるのでまだ時間割が無い、と言われ愕然としました。

また、パジャマのままのような姿で登校する子を見たり、プレーグラウンドで汚い言葉を使う子供たちを見て、がまんの限界。。。

3校ほど私立校を調べ、清潔で環境が良くて、対応が素晴らしく、そして調べた中では一番授業料の安かった今の学校へ転校させることにしました。Coomera Anglican College です。

新学期4週目でしたが、最初に教室に連れて行くと、先生も生徒達も娘を大歓迎してくれて、娘も新しい学校にすぐ馴染み本当にホッとしたのを覚えています。娘の転校と時期を同じくして名物校長先生 Mr K が赴任してこられたのもラッキーだったと思います。 Mrs K は日本語の先生でご家族で日本にも 2年住んでいらしたことがあり、学校初の日本人家族を暖かく迎えてくださいました。

こうしてゴールドコーストでの生活が始まったのですが、当然夫は新しいビジネスを立ち上げるのに忙しく、母子とも友達ができればと思い、長女を日本語補修校の1年生に入学させ、次女は幼稚部に通うことになりました。(毎週土曜日午前中の授業です)

しかし、もうご存知のように長女も次女も私も!日本文化?に馴染むことができず、、、3人揃ってドロップアウトした次第です。

こうして最初からゴールドコーストにはイマイチ馴染めずにいたわけです。あまり思い出したくない時代ですね。

次回は私の転校先である、グリフィス大学での思い出話でもしようかと思います。

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2009年3月 5日 (木)

夢のケアンズライフ

経歴の続きです。

1998年、第3子を出産した私は、翌年から大学に復帰しました。当時長女は近くの私立校のプレップ(幼稚部) に通っており、前年度デイケア (保育園) にどうしても馴染めなかった次女と長男は Family Day Care (認可を受けた保母さんが自宅で少人数の保育をしてくれるシステム) に週2日ほど預けました。

Family Day Care のお宅は自宅ガレージをすべて改築し、おもちゃや本もたくさんあって、お庭には幼稚園顔負けの遊具がそろっていました。その保育士さんは4人までしか預からず、まだ1歳程度のうちの息子も安心して預けられました。とにかく家族みたいな環境で、うちの下2人の子と、他のご家族のやはり姉と弟の4人を仲良く遊ばせてくださいました。

この規模でもしっかり認可を受けていますので、働くお母さんや、私のように勉強中のお母さんの保育費にも政府の補助が出ていました。

よい環境に恵まれ、安心して勉強を続けることができました。とはいっても家族優先ですから、大学はパートタイムで通常1学期4科目履修するところを2科目ずつ進めていきました。

ケアンズのジェームスクック大学スミスフィールドキャンパスは、無料で止められる駐車場、新しい設備、それに私のような年配?の学生が多く、同胞もたくさんできてとても有意義で楽しかった記憶があります。

大学のない日は、日本人ママさんたちの子連れランチ会や、公園での持ち寄りパーティーや、たまには子供たちをお父さんに預けてのディナーなど、本当に楽しい思い出がたくさんです。子供を寝かしつけてから友人と好きな映画を見に行ったり、このころはゴルフも始めたりして、ヘタクソでしたがケアンズ有数のコースでラウンドしたり、、、お値段も安かったし、主婦でもゴルフを楽しめてしまう環境だったのです。

充実していて本当に楽しい日々でした。ケアンズは素晴らしい環境に恵まれ、安心して暮らせる都市(?)です。夏の数ヶ月は暑さとサイクロンに苦労しますが、4月~10月は本当にさわやかでゴルフ日和が続きます。

初めての家を建てた場所でもあったので、私達にとっては第2のホームタウン、今でもなつかしく思い出します。

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2009年2月23日 (月)

久しぶりの、、、

すっかりご無沙汰してしまった私の経歴、、、私の18歳からのウン十年をたどって書いています。

前回は確かケアンズで29歳妊婦で大学生になった話し、、、ハイ、3人目をお腹に勉強を始めました。そして充実した1学期終了後、第3子出産のため1学期休学。

3人目ともなりますと慣れたもので、十分入院生活を満喫してきました、という感じです。実際は私の場合、出産にかかった時間は1人目、2人目、3人目と長くなっていきましたので、3人目が一番時間がかかり、まいったな~、こんなに時間がかかるなんてー、いい加減にもう出てきてくれないかな~、という気持ちでした。

3人目は男の子だったので、日本の両家族は大喜びでしたが、私自身は実はオムツを変えるたびに、ウッ!とひるんでしまう、、、慣れるのにかなり時間がかかったものです。

ケアンズのカルバリーホスピタル (現ケアンズプライベートホスピタル) での出産でした。この子はよく寝てくれる親思いの子で、もう最後であろう私の出産入院生活を十分満喫させてくれました。素晴らしい食事、とはいいませんが、午前と午後のおやつを含め、調理したものを出してもらえることほど、主婦にとって嬉しいことはありません。上げ膳据え膳っていいものですね。。。

泣き続ける次女の時は食事も喉を通りませんでしたが、ひたすらスヤスヤと眠る長男、エライよ君は!ずっと入院していたいくらいでした。残念ながらそうもいかなかったので、確か5泊くらいして帰りましたが、オーストラリアではこれは長いです。早い人は翌日帰りますからねー。

ただ人生そう甘くはないもので、出産時に長女と次女を見てもらうのに夫の両親がきてくれていましたので、退院その日から、私がお世話しなければならいない家族は総勢7人!洗濯、掃除、食事、お土産ショッピングのお付き合い、、、という日々が待っていました。

無事に両親を日本へ送り出し、5人家族としての生活が始まりました。かわいい弟の出現を一番喜んだのは次女、まだ1歳8ヶ月の彼女の献身的なお世話といったら!自分とそうサイズの変わらない巨大なベイビーちゃんを抱き、ミルクを与え、オムツを変え、、、まさにチーママ。

当時まだまだ次女に手を焼いていましたが、3人目の息子は本当に手がかからず (ほったらかし、、、?) にぎやかで楽しい日々が始まりました。

というわけで、次回いつになることやら、、、幼子3人抱えての大学生活に続きます。

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2009年1月30日 (金)

キャンベラでのホームステイ

なぜか昨夜突然キャンベラ時代を思い出していました。

23歳にしてオーストラリアへ語学留学した私は (随分昔のはなし!) キャンベラ大学の薦めるホステルというところへ滞在し、それから大学寮に入るか考えようと思っていました。23歳にもなっていたし、あまりホームステイをしたいとは思っていませんでした。

しかしこのホステル (Gowrie Hostel) キャンベラのシビックから目抜き通りのノースボーンアベニューを15分くらい歩いたところにあります。確か当時は1泊 $30 安くて素晴らしいけど、恐ろしく不快な宿泊施設でした。

翌日の朝、あ~いい天気だ!と外の空気を吸い込む私はいきなりホステルの前でマグパイ (人を襲う鳥!) に襲われ、後頭部から出血、、、、今は笑って話せますが、当時はそんな鳥がいるとも知らず、どうして~ sweat02 と泣きたくなりました。

朝ごはん、一応ビュッフェスタイルの朝食でしたが、鉄のように硬く干からびたベーコン、真っ黒なトーストに妙な味のベイクドビーンズ、確かジュースくらいしか胃に入りませんでした。

翌日からは同じタームから英語コースを申し込んだ日本人の女の子と合流し、ちょっとホッとしましたが、彼女の部屋ではが大発生、ホステルの人は何もしてくれず一晩で通り向かいの素敵なモーテルに移っていきました。

翌日出かけている間に、少しだけ持ってきていたアクセサリー類がホステルの部屋から消えていました。ピアス数個と指輪が2つくらいだったか、高価なものではありませんでしたがこれもかなりショックでした。今考えるとそんなものを机の上に置いていった私がアホだったのですが、、、

大学の学生寮は空きがなく、一日も早くここを出たいという欲求から、最後の手段ホームステイを申し込みました。すぐオーストラリア人の旦那とフィリピン人の奥さんと子供が一人という家族を紹介してもらいお世話になることになりました。

フィリピン人の奥さんの英語は比較的理解できたのですが、オージーアクセントの強い旦那の英語はまるで分からずコミュニケーションができませんでした。 エーユーウァッシイングニャーウ?はっ?エーユーウァーッシーングニャーーウ?えっ?ニャーウって何?聞いたことの無い単語。。。。真剣にそう思いました。 (ちなみにニャーウは Now です)

私のために彼がゆっくり話せば話すほど単語が妙に伸びてしまうので、会話は迷宮入りするばかりでした。当時度胸のなかった私は彼と話すのが怖く、はっきり言って彼をさけていました。

結局そのお宅には 6ヶ月ほどお世話になったのですが、彼らが出張で2ヶ月ほど家を空けていたり、私が姉の結婚式で日本に帰ったりしたので、事実上3ヶ月くらいしか一緒に生活はしませんでした。

ホームステイの美談がよく語られますが、私は圧倒的に失敗例の方が多いのではと思います。日本って人の家にお世話になる習慣がないので、大きなカルチャーギャップを感じました。そう大体お世話するのが日本ですが、こっちは適当に共同生活、みたいな感じなのかしら?

自分の子供たちを見ていると、友達の家に泊まりにいくことが多く、泊まりに来ることも多く、そこのお母さんと気があったりすると何週間いてもいいわよ~、って言われたり、友達のお宅のサマーホリデーに2週間連れて行ってもらっちゃたり、、、ですから子供の頃から共同生活に慣れ親しんでいるんだなあ、と感じます。

日本では親戚が泊まるってことがあってもせいぜい数日ですからね、お客様としておもてなしし、会話を弾ませって気を使いますが、こちらの友人が泊まったときに会話を作らなきゃと思い、どこで生まれたの?仕事は何をしているの?家族はどこにいるの?ととても日本的な質問を重ね Job Interview 面接受けてるみたいだ、といわれたことがありました。。。スミマセン。

長々と書いてしまいましたが、私の若輩時代の痛~い思い出の一つです。ホームステイをしようと思っている方、あまり気張らず自然体で、楽しんでください。(説得力なし)

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2008年12月28日 (日)

ケアンズ大学生生活

久々に経歴の続きです。

晴れて妊娠中の大学生となった私はパートタイムで週に2日ほど娘2人をデイケアセンターに預け、ジェームスクック大学、ケアンズキャンパスに通いました。

ケアンズ北部に住んでいたのでスミスフィールドのキャンパスまで車で5分ほどでしたし、できたばかりの校舎に広~い無料パーキング、ケアンズキャンパスは Mature Students (私のように社会を経験した後勉強に戻った学生) も多く、とても快適でした。

まず、ブランクのある数学の復習コースを取らねばならず高校2年生で数学を捨てた私にとっては恐怖の科目でした。ところが素晴らしい教授に恵まれ、あんなに苦労した数学を丁寧にわかりやすく教えてくれ、なぜ昔数学が苦手だったかわからないと感じるほど数学の科目を楽しみました。数学に限りませんが、英語で習った方がシンプルなものって結構あります。

もう一つは Economics 経済でした。これも実際に社会で見てきたことを論理だてて理解することができたので、楽しかったし勉強になりました。

ANZ銀行に勤めている際に出会った知人もたまたま大学で勉強を始めていて、偶然経済の科目で出会いました。ちょっと近寄りがたかった彼女を知るきっかけとなり、実は今も私の大切なスピリチュアルフレンドです。

新しいことを学べることのありがたさ、いろいろな人と出会える喜び、大学は私にとってとてもスペシャルで大切な場所でした。

2学期目は第3子出産を控えていましたので半年休学しました。

第1子と第2子の出産について以前書きましたが、3人目ともなると特に思い出もなく、、、なんて息子に失礼ですね。思い出しながら次回は第3子出産に続けたいと思います。

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2008年12月 3日 (水)

29歳、6年のブランク後、大学へ入学!

1997年ケアンズにて、職場復帰を断念したお話をしましたが、その後調子に乗って第3子をもうけました。

次女の育児にあんなに大変な思いをしたのに、どうかしていたとしか思えません。

ただ銀行に職場復帰できなかった時に、やはりこれからは手に職がないといくら頑張っても主婦という立場ではできる仕事に限界があると感じていました。

大手銀行だったためユニフォームを着ていれば差別されることも無いですし、自分も大船に乗った気分でしたが、辞めてしまえばまた肩書きのない私。。。

子供も2人抱えて3人目も妊娠中、 この状態で勉強なんて考えられなかったのですが (パートタイムで6年というのも、気の遠くなるような話でしたし) 夫の同僚の一人と話したときに "If you start now you would complete your degree in six years, but if you don't start you would never get there."  今始めれば6年後には学士号を手に入れることができる、でも始めなければ6年後にも今と同じだ”というようなことを言われました。

確かに、、、そして考え方を改め、これから6年も勉強ではなく、子供が小さいうちに勉強させてもらい、3人目が小学校に入るまでに卒業できればいっか、に転換しました。

こうして6年のブランク後、29歳妊娠中に念願の大学生に note 

当時まだできたばかりの James Cook University Cairns Campus ジェームスクック大学ケアンズキャンパスに入学 Bachelor of Commerce 商学の勉強をはじめました。

長い間18歳の時に大学へ行けなかった挫折感、大学生に対する嫉妬心を抱えていました。でもやっと自分が長年の夢であった大学生となり本当に嬉しかったです。随分遠回りし子連れとなりましたが、最初の科目となった数学復習コースと経済学、なにもかも新鮮で楽しく、過去にないほど勉強しました。

そして HECS制度なしでは実現しなかった私の大学生活、、、次回少し HECS - HELP 制度についてお話します。

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2008年12月 1日 (月)

職場復帰断念

経歴続き、、、Cairn 1997

大変な育児が続くなか、マタニティーリーブもそろそろ1年。職場復帰の決断が求められていました。

長女 4歳と次女 11ヶ月を Day Care (保育園) に入れて ANZ 銀行のパートに復帰するかとても悩みました。でも人見知りの激しい次女を週4日 Day Care においていくのは心苦しく、また CCB 保育園費用の手当てが出ても、2人分の保育園費用と、週25時間程度のパートの収入を考えると、、、手元の残るのはわずかです。

とても残念でしたが、職場復帰は断念せざるを得ませんでした。

でも仕事復帰しない、と決めたことで逆にプレッシャーもなくなり、この辺りからケアンズママライフを楽しむことができるようになったかもしれません。

ケアンズのたくさんの素敵な日本人ママと知り合いになりました。本当にみんな毎日を楽しくキラキラと過ごしていて刺激も受けたし、目標にもなり、またたくさん助けてもらいました。

育児について相談できる友達がいることも心強く、家にこもって悩んでいた日々がうそのように楽しい毎日となりました。

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2008年11月30日 (日)

ケアンズにて第2子出産

経歴の続き、、、

こうしてケアンズにて銀行員生活を送っている時に、第2子を授かりました。35週くらいまで働きマタニティーリーブに入りました。

銀行で親しくなったスタックにベイビーシャワー (産まれてくる子を祝福して赤ちゃん用品などをプレゼントしれくれるパーティー) をしてもらったり、忙しい私の両親に代わり、夫の両親が手伝いに来てくれたり準備は万端でした。

無事に次女が産まれると、長女のときとは正反対 (第1子出産、参照) ケアンズで交流のあった日本人ママたちや、家族、友達、ご近所さんなどに囲まれ病室はお花やカードであふれていました。本当に嬉しかったです。

ただ産まれてきた次女は長女とは正反対でとても手のかかる赤ちゃんでした。

次女の特徴:

母乳以外は拒否 (いいことなんですが、、、)

2時間と続けて寝ない

スーパーセンシティブ (コトッ、カタッ、という音にも反応してしまう)

乳幼児の時から人見知り (基本的に父母以外だれにも抱かれたくない)

こんな調子で 9ヶ月ですから、私はゾンビのようでした。3時間でいいから続けて寝たい、が私の切実な願いでした。なんでも喜んで手伝ってくれる夫ですが、授乳だけは無理ですので、夜中に何度も授乳で起きて次女を抱いてゆ~らゆ~ら (内心い~らい~ら) している横でガーガーと気持ちよさそうに寝ています。

夫を蹴飛ばしたいという気持ちと、娘を放り出したい気持ち (ごめんなさい、でもそのくらい精神的に参っていたんです。) との葛藤でした。

ボトルでまとまった量を飲んでくれればもっとよく寝てくれるかも、との思いから断乳も数回試みましたが、娘はハンストで抵抗、2日たっても 30ml 程度しかミルクは飲んでくれず、泣き続けられると、胸は張って痛いし、泣かれてつらいし、で勝利するのはいつも娘でした。

離乳食もほとんど食べてくれず、睡眠パターンも改善せず、本当に悩むばかりの育児でしたが、Child Health Clinic (保健所?のようなサービス) のナースには本当にお世話になりました。普通は定期的に通って、赤ちゃんの体重を量ってもらったり、様子を話したりするところなのですが、私のように困っているママのところへは出張してくれたり、ただ涙しか出ない状況でもやさし~く、聞いてくれ相談にのってくれます。

本当に無事に育ててこられたのも、こういう素晴らしい制度とサービスが整っていたおかげだと思います。いまさらながら感謝です。

ちなみに娘が10ヶ月になっても、2-3時間おきの授乳と睡眠だったのでナースと何度も相談して Controlled crying techniqueにてなんとか夜は 4-5時間寝てくれるようになりました。こちらも精神的にボロボロになりますが、どうしてもという状況ではやむを得ない手段だし、母子お互いにとって必要な場合があると思います。

次女はいまだに、頑固で気が強く、思ったことは考える前に行動する、とてもやんちゃな娘ですが、何事にもくじけない強さがあるので将来は大物になる、と期待しています。

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2008年11月22日 (土)

ケアンズでの新生活

こうしてはるばるキャンベラから移動し、1994年の終わりからケアンズでの新生活が始まりました。

夫の職場の上司の方達も大変よくしてくださり、私が日本では銀行で働いていたというと、ANZ銀行のマネージャーにお話してくださり、パートで働かないかというもったいないようなお話をいただきました。

何しろ、キャンベラでは約10ヶ月家にこもっていましたので、不安もありましたが2つ返事でOK しました。研修を数日受けて、どこの国でも銀行のシステムは同じなんだと、言葉の壁は知識でカバーできると自信もつきました。

日本での経験がここで活かせるなんて考えてもみませんでした。ANZ 銀行ケアンズ支店では、テラーとして働くことに、、、当時、まれに日本人のお客さんが来ていたものの、まだまだ数は少なく、日本人のお客さまのためにだけスタッフをおくことはできないと言われていたので、あくまでも現地スタッフと同じ条件で働き、日本人のお客様がきて言葉の問題があった場合に私がお役に立てればといった状況でした。

100% 現地スタッフの中で働くという経験は、楽しいことばかりではありません。イヤな思いもたくさんしましたし、お客様から差別を受け涙したこともありました。sweat02

でもそんな思いをするたびに、“悔しい、絶対見返してやる!”と強く心にきざみ、頑張ってきました。会話がなんとかなっても、やはり常識不足や読み書きでのハンディーがついてきます。

例えば、Bank Cheque (銀行小切手) を依頼されても、支払い先を指示されてもほとんど聞き取れないんです。聞き取れても、知識がないとタイプしようがないんです。

Please make a bank cheque of $5,000 to ATO. (5千ドルの国税局宛の銀行振り出し小切手を作ってください。)

と言われても、ATO が何だか分からなければ、Australian Taxation Office とタイプするのは不可能なのです。考えてみてください。こうやって省略形で示されているものってたくさんあるんです。

“すみませんが、スペルをここに書いてください”という度に本当に恥ずかしい思いをしました。そりゃあそうですよね。大手銀行の社員が漢字が書けないので教えてください、って言ってるようなものですからね。

まあこういった恥ずかしさから、もっと勉強しなくては、という意思が再度生まれました。パートで働きながら、TAFE のライティングのコースにも通いました。

テラーとして半年くらい働いた後、送金手続き、口座の新規開設や解約、定期預金の相談から保険の販売まで行う Information Officer になりました。このころになるとかなり自信もつき、日本人に限らずお客さまのご相談を受け事務をこなしていました。

いつでも、どこでもハッピーな長女は保育園も喜んで行ってくれましたし、夫の仕事も順調で、私も仕事が終われば 100% 母親、主婦業に戻れるので、毎日楽しくて仕方がありませんでした。

なんといっても、子供のこと以外に夫と仕事の話ができるようになったことは本当に新鮮で嬉しいことでした。こんな私を採用してくれた ANZ に心から感謝です。 

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車で引越し3000km

1994年をキャンベラで過ごした私達家族は、夫の就職が決まったケアンズへと引っ越すことになりました。

これってオーストラリア東海岸縦断です。距離3000キロ。。。

またしても家具の引越しにお金がかかるので、自分達は2歳前の長女を連れて車で移動することを決心 rvcar (小さいお子さんがいる方にはお勧めできません!)

Canberra - Gold Coast (1300km)

確かシドニーを超えたあたりで1泊し、まずはゴールドコーストへ。途中、グラフトンでジャカランダ並木がとても美しかったのを覚えています。ゴールドコーストでは奮発してロイヤルパインズリゾートに泊まり、友達に会ったり、お世話になった方にご挨拶したりと楽しい時間を過ごしました。

Gold Coast - Gympie (300km)

慣れ親しんだゴールドコーストを出たとたん、未知の土地への不安が、、、ギンピーでは偏頭痛に悩まされ、娘もぐずるし、、、後部座席で2時間くらい泣き続けられ、精神的にボロボロになりました。

Gympie - Rockhampton (400km)

もう強行はイヤと断言!早めに小綺麗なモーテルを探しゆっくりと休む。

Rockhampton - Townsville (600km)

このあたりから海が見えるたびに感動 wave まさにエメラルドグリーン。本当に美しい色に感動しました。

Townsville - Cairns (400km)

海の色がさらに明るい色になり、頬にあたる風も暖かく、日差しも一段と強く、第一印象はまさにトロピカル sun

とうとう新天地ケアンズにやってきました。明るい日差しのケアンズに不安はすっかり吹き飛びワクワクした気分で新しい生活を始めることになりました。

 

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2008年11月19日 (水)

再びキャンベラへ

1994年の夏、長女もすくすくと育ち、ブロードビーチの暗~いユニットからメリマックの新築のユニットへ引越しました。新しく家具も買いそろえ、新しい出発といったところでしょうか?

ところが引っ越して、2ヶ月、夫がキャンベラへ引っ越すぞと言い出しました。なんでも仕事の研修制度が ANU (オーストラリア国立大学) であるとのこと。。。

こうやって B型の本領発揮が始まり、ある日突然予定もしていなかったことを実行することになりました。わかっていたら家具なんか買わなかったのに。。。レントだって契約期間を破って出ることになり、引越しにも大変お金がかかってしまいました。

秋深まるキャンベラへ逆戻り、、、、キャンベラの冬は経験した人でないとわかりませんが、タスマニアより寒いんです!snow

盆地なので雪が降らないのに、気温が下がる下がる。真冬の朝、気温は毎日マイナス9度でした。そしてまた古~い家を借りたので、お湯タンクが小さくお風呂にもまともに入れず、シャワーを浴びてもいつお湯が切れるかとハラハラ。ガレージもなかったので、毎朝ガチガチに凍った車のフロントガラスを熱湯で溶かすのが日課に、、、、

本当に美しい都市、キャンベラ、一度は観光に行かれることをお勧めいたしますが、絶対冬は避けるべきかと思います。

町は大変きれいに整備され、公共のプールや公園もたくさんあります。でもはっきり言って使える季節が短くてもったいないなあ、、、というのが私の感想です。

この寒いキャンベラで、ほとんど娘と二人家で過ごしました。これほど、テレビを見まくったことは後にも、先にもこの時期だけです。でもセサミストリートから始まり、オーストラリアのトークショー、アメリカの昼ドラまで見てましたので、1000時間ヒアリングマラソンではないですが、かなり耳が英語付けになり、それなりに役に立ったと思っています。

どんなにネガティブに思えることでも、無駄になることってないんですよね。私は全てに意味があると信じています。

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2008年11月16日 (日)

第一子出産

経歴の続きをお話します。

ゴールドコーストでは、夫は大学卒業に向け勉強の日々、私はアルバイトに勤しんでいました。1993年にめでたく長女を授かりました。

喜びの出産のお話をしたいところですが、海外での2人きりの出産はとてもさみしいものでした。キャンベラでの友達や、ゴールドコーストでできた友達も帰国してしまっていたので、病室で隣のママに毎日家族や友達が詰めかけ、花束やバルーンが増えるたびに、私は行き場を失い涙がとまりませんでした。

そんな中、お祝いに来てくれた夫の大学の友人達、バイト先のスタッフには心から感謝です。

妊娠39週で生まれてきた長女は2600グラムしかありませんでしたが、私にとってはとてもつらい場所だった病院を一日も早く出たかったので、4日目には退院をしました。

でも長女が誕生したのをきっかけに、私の母親が手伝いに来てくれたり、夫の両親にも写真を送ったりと交流が再開し、この子がまわりのみんなに幸せを運んで来てくれました。sun

赤ちゃんを抱いたことも、触ったことも無かった私ですが、幸いにも夫が姪っ子や甥っ子が生まれた時のことを覚えていたもので、あーでもない、こーでもない、と言いながらなんとか育ててきました。

本当にニコニコの Happy Baby で、これといった病気もせず元気に育ってくれて、本当にありがたいことです。

その長女がもうすぐ16歳、、、時が経つのは早いですね~。私の気持ちは20代の時となにも変わっていないのに、、、coldsweats01

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2008年11月12日 (水)

ゴールドコーストでの生活

1992年、キャンベラからゴールドコーストへとやって来た私は、すぐアルバイトを探し始めました。友達の紹介で、サーファーズの免税店と、オパールとお土産を売るお店とを、かけもちで始めました。

キャンベラでは、外国人は基本的に少ないので、どこへ行っても英語が話せてあたりまえ。でも、ゴールドコーストに来ると、日本人をはじめ外国人が多いこと!免税店では、ほとんどがワーホリで来ていた子達だったので、お客様のためにタクシーを呼んであげたら、すっごーい、と尊敬の眼差しを受けました。まんざらでもない私でしたが、やはりもっと英語力を伸ばしたいと思い、オーナーや他のスタッフは全てオージーだったオパールとお土産のお店に仕事をしぼりました。

当時、私の両親、夫の両親から勘当状態(?)の私達でしたが、それまでの人生では出会ったことのない信頼できる人、尊敬できる人、パワーをもらえる人であり、(結婚17年の今でも変わっていません!)運命の人であることを感じていましたので、紙切れ1枚のことですが、籍を入れ結婚生活が始まりました。

本当に彼と出会ってから、今まで出来ないとあきらめていたことが、やる気と努力で実現可能だということを教えられました。

思い返すと、オーストラリアに来る決断、ここに残る決断、夫との結婚の決断、、、

すべて私にとっては運命の決断であり、今につながるポジティブな決断であったと思います。

こうして、彼は大学の勉強に打ち込み、私はアルバイトをしながら貯金、という幸せな日々が続きました。キャンベラのTAFE からこちらのTAFE に変更しようかという選択支もあったのですが、当時ゴールドコーストのTAFE はイマイチ柄が悪く感じて、勉強はしばらくお預けとなりました。

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2008年11月 7日 (金)

23歳の時の決断

さて、1992年23歳の私は、親の猛反対を押し切り、オーストラリアに残る決断をしました。

遠距離恋愛中のゴールドコーストに住む彼(現夫)には英語で文通などをしながら、いろいろ相談に乗ってもらいました。週末に、車で15時間かけてわずか4,5時間会うためにキャンベラまで来てくれたこともありました。

オーストラリアに残って勉強をすることを決めた私に、彼は、“英語勉強するのではなく、英語何かを勉強するべきだ” と薦めてくれました。

もし英語が上達したい!と思ってる方がいたら、これ本当ですよ~。英語を勉強しているうちは絶対なっとくがいく英語力は得られません。よくいわれることですが、言語はツールなので、ツールは使ってナンボなんですね。

ということで、ファイナンス、会計に興味があった私はキャンベラTAFEのアカウンティングコースに通うため、必死で勉強し IELTS のスコアをクリアしました。(ここだけの話ですが、スピーキングのテストにとても恐怖を抱いていた私は、試験 30分前にワインを一杯ひっかけて臨みました。それが功を成したのか、テストの間中、話が途切れることはありませんでしたよwine

晴れて、新学期からキャンベラTAFE の会計学コースに通うことになった私でしたが、新学期まで3,4ヶ月あるし、生活費も稼がねばということで、アルバイトならゴールドコーストだ!と秋深まり枯葉散るさみしいキャンベラmaple からまだ夏を思わせる青空のゴールドコーストwave へとやってきたのでした。

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2008年11月 4日 (火)

留学決意

こうして、(経歴の続きです)2年半ほど英語学校に通ったものの、なにか自分の目指していたバイリンガルには程遠い現実を知った私は、“じゃあ留学しよう”と決意しました。

行き先は、、、アメリカは今更だし~、治安も悪そうだし~、カナダかオーストラリアにしようnote

カナダは寒そうだから~、オーストラリアにしようnotes

本当に簡単に、単純に決めました。それからオーストラリアで英語が学べる学校を探したのですが、当時は(1991年!)まだエージェントなどというものも無く、インターネットなどというものも普及しておらず、、、アルクの出版していた本や、旅行関係の本など、少ない情報の中から、手探りで探しました。

手探りというよりも、何しろ今みたいにウェブサイトで教師人の顔を見たり、校舎を見たりできるわけではないので、ほとんど想像の世界でした。

こうして、晴れてキャンベラ大学の英語コースへ通うべく、貯金を全てはたいて運命のオーストラリアへとやって来たわけです。

キャンベラの印象は?

すべて整然としている。

建築物がうつくしい。

緑がきれい。

静かで人がいない。

さみしい。。。

大きな期待を抱きキャンベラに来ましたが、とにかくさみしくて、人恋しくて、今思うとこんなキャンベラで出会った夫と恋に落ちたのも無理はなかったのかなあ。。。heart04

話を元にもどします。

キャンベラ大学の英語コースは、ラオスからの政府関係者がたくさんと、ヨーロッパの学生、東南アジアの学生、日本人も10%くらいはいたかなあ?充実していました。最初は自分のヒアリングの弱さを思い知り、自信喪失状態でした。

サマータイムも知らず、1時間遅れて学校に行ったり、、、ホームステイをしたものの、イマイチ楽しむことができませんでした。日本人学生を常に1人以上は置いている、というご家庭だったので、私が用意していった日本のおみやげは出せずじまいでしたsweat02 だって、もうすでに数え切れないくらいの日本のこけしや折り紙やいろいろなものが飾ってあったんです。。。

キャンベラには若者が楽しく遊べるような所はどこにもないので、当然ひまをもてあますことになり、まあ、目的どおりに勉強するには本当に良いところでした。たくさん勉強し、サマーキャンプなども楽しみ、予定の6ヶ月はアッというまに過ぎてしまいました。

ここで大きな転機が、、、

私の目指していた英語のレベルにはまた程遠い、、、でももう貯金もつきて、、、

そんな時、当時ゴールドコーストから遊びに来ていた夫(日本人、11歳年上、当時学生)と出会い、強く、このまま勉強を続けるべきだと薦められます。そして、日本の両親を裏切り、帰国をやめオーストラリアで勉強を続けることを決心したのでした。

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2008年10月31日 (金)

英会話スクール

そして20歳の私は、毎週土曜日、3時間、英会話学校に通い始めました。

はじめのインタビューから、レッスン、ネイティブの先生との会話の時間など、刺激をたくさん受けました。今まではるか遠~くにあった、キラキラした憧れの世界に一歩近づいたようでした。shine

レッスンにも休まず通い、予習も復習もバッチリ、土曜日が楽しみで仕方がありませんでした。(ネイティブの先生とのセッションは大の苦手でしたが、、、sweat01

銀行の仕事にも慣れ、良い同僚にも恵まれ、中には話しの分かる上司もいて、そんな仲間で旅行を楽しんだり、充実した社会人生活を送っていたと思います。でも私の心の中にはいつも、“努力しただけの見返りが欲しい”という気持ちが渦巻いていました。

最初の年は Beginner から初め、2年目には Intermediate 、そして Upper Intermediate 、、、2年目からは掛け持ちで、1年目の先生がご自宅で開いていた英会話クラスに週2晩通い、、、、

そうです。お給料は全て習い事に使い、愛読書は“日系ウーマン”、とにかくキャリアウーマンになりたかったのですsign01

でも3年目に入ってから疑問が、、、“いったい、いつになったら英語がペラペラになるんだろう???”

これが銀行員生活5年目に、私がついに留学を決意したきっかけでした。

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2008年10月29日 (水)

男女不平等の続き

そうして1987年、私の銀行員生活が始まったわけですが、、、

私は事務職としての採用だったので、最初から昇進もなければ昇給も限られていました。

ところが、1986年に施行された“男女雇用機会均等法”の改正により、にわかに採用条件が変わってきたのです。

高卒の採用は私達の代で終わりになり、翌々年からの後輩は全て、短大卒や4大卒の新人、、、そして4大卒新人は無条件で総合職、、、

つまり、2年間よそ見もせず必死にマニュアルを読みながら勉強し、先輩にお世話になり、やっと一人前の仕事ができるようになったところで、入ってきた後輩は短大生活100%満喫してきましたheart っていうような同年代、、、もともと短大やら4大やらに行った女性にコンプレックスがあった私の不満は爆発しました!

ビックリするくらいにきれいに給与体系が整理されていて、20歳の2年経験のある私と、20歳の短大卒の新人のお給料は、まったく同じなのです。こうやって全て年代別に給与体型が作られていて、歳がわかれば給与もわかるシステムだったわけです。

一生懸命働けば、いつかは報われるんだと信じ、総合職を目指そう!と思った時期もありましたが、それはとても遠い道のりでした。まず事務職として5年勤務、そして総合職試験を受けて受かれば晴れて総合職に、、、というものです。

また、こういうやる気を促すような環境が無いんですよね。ふつうのパターンとして4-6年働いて、23-25歳くらいで寿退職が当時の女性のたどるべき道のような風潮があり、、、30歳で総合職を目指してます、なんていう女性がいると、ちょっと敬遠されがちでしたし。。。

となりでは、4大卒で研修に来た新人が、“あたし~、総合職じゃなくってよかったんですよネエ。。。” 

。。。。。。

懸命に働いて、一生懸命知識を付けて、担当上司も知らない業務ができても、報われない仕事って、、、信頼されるテラーとなり、指名してくれるお客様が増え(これは私ではありませんが)仕事を人よりたくさんこなしても、報われない仕事、、、

この辺りから多分、私の中では男女不平等や、年功序列式社会に対する怒りが渦巻いていたんだと思います。

当時は証券会社に勤めた友人が、給与は上がる、ボーナスは増える、笑いの止まらない状態でしたから、なおさら、自分はこのままでは終わらないぞ、と決意を新たにしたのでした。

この頃(20歳)、“そうだずっと勉強したかった英語を勉強し直そう” とECCに通い始めました。外資系に就職すれば、男女平等、成果主義で私の努力も報われる!やっと私は自分の足で歩き始めたわけですね。今思えば、その後の頑張りは、この怒りが原動力になっているのかなあ、と思います。

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2008年10月28日 (火)

男女不平等、年功序列の日本

タイトルを見て、えっと思われた方ごめんなさい。1987年の話です。

ピチピチの18歳、高校卒業し某都市銀行の女性行員として働き出した私の身に恐ろしい出来事が起こりました。

4月1日入行式、新しいスーツを着て、都内の会場での式典の後、配属された某支店に挨拶に行きました。この年、この支店に配属されたのは、私と同じく高卒で就職したTちゃんでした。新人2人ということで、挨拶に行くのもとても心強かったのを覚えています。

この日は確か土曜日で、(昔銀行は土曜も開いていたんですよ!) 挨拶だけで無事に終わりましたが、翌日の日曜に花見会があるからと、支店の近くの公園に来るように言われました。

わけも分からず、行ってみると、取引先の社長やらなにやらを呼んで接待兼のお花見会が行われていました。先輩女子行員はキビキビと動きながら、食べ物の手配や準備を進めており、私とTちゃんは何をしたらよいか分からずただボー然。。。

すると次長の一言、“ほら、ボーっとしてないで、支店長とXX社長にお酌、お酌!”

エッ?!(゚0゚)

お酌?お酌って、あのお酒をついであげるあれですか?

我が家では父があまりお酒を飲まなかったので、お酌ってしたことなかったんです!ショックでした。銀行に就職して最初の仕事 - ハゲ支店長へのお酌 (支店長ごめんなさい、個人的な恨みは全くありません。)

その後も、“これが今年の新人でね~。” “ほーっ、若くていいねえ” などというホステスになったかと思うような最悪の時間を過ごさねばなりませんでした。就職二日目にして、日本社会の現実を思い知ったわけです。

年功序列のお話はこの次で。

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バブル期日本

私は昭和43年生まれなので、高校生のころからオニャンコだーなんだと浮かれた世の中だった記憶があります。当時はディスコ大ブームで、スタイルの良いお姉さん達が踊りまくっていたのを覚えています。

しかし我が家は経済的に苦しかったので、大学へは行かせられない!と言われていました。姉は小さいころから成績もよく、生徒会長をしてしまうタイプで、エリート高校へ合格し某有名大学(?)へ奨学金を取って推薦入学を決めていました。

実は小さいころから、海外に憧れ、外語大学に行きたいなあ。。。なんていう希望があったものの、フツウの脳ミソしか持ち合わせなかった私は、高校の三者面談で親と先生に就職先まで決められ18歳で人生は終わった、と確信していました。

当時は、情報はとても限られ自分ひとりでやりたいことをどうやって実現していったらよいのか見当もつきませんでした。

当時、花の女子大生と言われるほど(今でも言いますか?)、大学に通う女性がちやほやされ、ファッションリーダー的な存在だったので、高卒で銀行に就職するという自分がそういう華やかな世界から取り残されたような気がしたものです。(今思うと、ただ私のコンプレックスだったのかもしれません。)

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